解剖学的嗅ぎ煙草入れ(22)

前回に引き続き。
誰得小説の続き。


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浮橋は観音崎の方へ振り向いた。
「ハ・ナリ=チルドレン」を見送っている間は、彼に背を向けていた。
彼女は観音崎と話を続けるため、観音崎の方を向いたのである。
観音崎から見る光景は、浮橋が振り向く様子は、例えるなら「まるで映画の1シーンみたい」だった。
西方へ帰るカード使いたちの方からは、夕日が射していた。
彼女はルビーのように紅い夕陽をバックに、その黒くて長い髪をなびかせて、微笑を浮かべながら、観音崎の眼を見た。


観音崎は紅潮していた。
陽が御来光のようである。彼女は――それはもう、神の国に住む女神のように――微笑んでいた。
こうしてみると、やはりこの人は美人だ――そんな印象を抱かないはずがない、そのくらい美しかったのだ。
その緑の黒髪は海中で波打つかのように躍動し、何事もなかったかのようにすぐに彼女の後ろで静止した。
「映画の1シーンみたい」だと、確かにそう思ったのである。
「しかし」とここで異を唱える者が観音崎の中にいた。
しかし、である。今の今までこいつ、浮橋とずっと付き合ってきて、こんな感情が、こんな感想が湧きあがってきたのは初めてなのである。浮橋と話していて、「こいつは美人だ」とこんなにも思い知らされたことは、今までになかったのである。
何故か? とここで心中の声は問う。
即ち、彼は自問しているのだ。何故浮橋が美しく見えるのか。理由をつけたがっているのだ。
そして、その理由はもう一度浮橋の顔を見たら分かった。
今までに無い位浮橋は笑顔だったのだ。
そして、その表情を見れば、もう彼女との付き合いも長いのだ、彼女がおおよそ何を言いたいのか位は分かる。
今回は何を俺に伝えたいのか、はっきりと分かる。
そんな目をされたら、言われる前から何を言いたいか分かってしまうではないか。


やっと二人きりになれた。これでやっと言える。
僕は、君が好きだ。愛してる。


まだ浮橋は何も言ってはいない。しかしもう言いたいことは分かるのである。痛いほど。
観音崎には彼女がこれからこう言うのだということが、もう伝わっている。ひしひしと。
それでも、彼女は言わねばならないのである。
大切なことは口にすべきだから。
もう観音崎と浮橋の間で意思の疎通はされていた。
これから、彼らは愛の告白をする。
二人とも互いの眼を見ただけでそれが分かるほどなのだ。
それほど通じ合っているのだ。
しかし、彼らには告白の前に一つ、確認しなければならないことがあった。
それも、彼らは2人とも分かっていた。
だから、観音崎は浮橋が一旦目を逸らしたことも理解できた。
次に彼女が彼を見たときには、もう先程の艶やかな目ではなかった。
いつもの浮橋である。
しかし、真剣な表情をしている。
強い眼差しで観音崎を見ている。
そして、浮橋は思いを伝える前に確認することを、口にした。


「……まだ、あの時のこと、気にしてるの……?」
思ったより厭な口調になってしまったと浮橋は思った。
未練がましいみたいだ。そんなつもりはないのに。
浮橋は少しだけ後悔した。
「まだ忘れられないな……いや、ずっと忘れられないだろう」
観音崎が言った。
「そうじゃなくて、忘れてるかどうかなんてことじゃなくて、だって忘れるはずがないものあんなこと、そうじゃなくて、まだ気にしてるかなってこと……」
最後は消え入りそうな声であった。
浮橋は動揺しているのが自分でも分かった。
仕方ないのである。あれだけの出来事だ。無心で居られる方がおかしい。
「気にしてる、って、それは」
気にしているに決まっている。
観音崎はそう言うところをグンと堪えた。
彼女が泣きそうな顔をしているように見えたからである。
そうだ。浮橋は、確認したいんだ。浮橋がおれを愛していいかどうかを。
危うく忘れるところだった。
これは、彼女を安心させるための会話だ。真実を、思ったことだけをべらべらと述べるためのものではない。
だから、俺はこの目の前の震えている少女に、優しい言葉をかけてやるべきなのだ。
「いや、今はもう、気にしてないわけではないよ」
そう言って観音崎は、浮橋を正面からぎゅっと抱きしめた。
浮橋が泣いているのが分かった。
「何よっ、はっきりしないで……ほんとにもう、あんたらしいんだから……」
嗚咽しながら浮橋は言った。
しかし、口では彼の優柔不断さを指摘しながらも、本当は嬉しいのである。
彼が間を取ってくれて。浮橋の気持ちと自分の思うことの。


そして、観音崎は浮橋を抱きしめながら、思い出していた。
彼が中学3年生の頃の話を。
それは、「悲劇」である。
彼がかつて親しかった少女、松原虹乃との物語である……。